
40年間に渡り、メディアを騒がせた前代未聞の夫婦・樹木希林と内田裕也。夫の内田は幾度となく事件を起こし、世間を驚かせていた。今回は膨大な2人の会見映像や関係者の証言をもとに、夫婦の真実を再現ドラマで紹介した。
それは、夫の内田が逮捕されたという衝撃の一報から始まった。ある日、朝まで大量のお酒を飲んだ内田は酔っ払って包丁を持ち、「日本のロックミュージシャンを大事にしろ!」と大騒ぎ。自ら110番通報をし現行犯逮捕。内田は警察署に留置された。そこに娘の也哉子を連れた樹木が面会にやってくると、小さな也哉子は「お父さん、もう包丁なんか持たないで」と直球で伝えたという。
逮捕から12日後、内田は罰金3万円で釈放された。 そして後日、内田は会見を開いたが手をポケットに突っ込んでの登壇。しかし律儀に会見に応じた。也哉子さんは当時の会見について「衝撃的過ぎて、あるいはショック過ぎて」「そこからまたいろんな事件を起こすものだから。それが最初の洗礼だったんですね」と振り返る。
この包丁事件から数十年たった頃、内田はまたも事件を起こして逮捕され、樹木の自宅には100人近い報道陣が押し寄せた。そこで樹木は近所迷惑になるからと報道陣を自宅に入れ、異例の記者会見を開いた。
そこで、樹木は離婚はしないと言い切った。
一方、留置場での内田はなぜかテンションが高かったという。その理由は留置場の居室の番号が69番、ロックだったから。
留置所から出た内田はまたも律儀に謝罪会見を開き、樹木が面会に来た時のことを聞かれると「来てくれて嬉しかったです。心から反省しています。ありがとうございました。ロックンロール」と話した。
内田は1991年3月に都知事選に出馬。NHKでの政見放送収録の日、内田は公約の原稿を作って臨んだが、自身のヒット曲「コミック雑誌なんかいらない」を熱唱。そして最後は「LOVE&PEACE TOKYO!ロックンロール!サンキュー!」と締めた。実は他の候補の収録を見ていた内田が「普通にやってもダメだ」と、急遽オレ流に差し替えたものだったという。
今回は、樹木と内田の運命の出会いも振り返った。2人が出会いを果たすのは1973年のこと。この頃、樹木が出演するテレビドラマ「時間ですよ」にかまやつひろしも出演していた。そのかまやつに会うためにスタジオにやってきたのが内田だった。
この日は雑談した程度でその後会う機会がなかったのだが、2ヶ月後、神社巡りが好きだった樹木は出雲大社へ。
その時出雲大社の境内に、なぜか内田の姿が浮かんできたという。そして樹木は「これはきっと…裕也さんにまた会えるっていうお告げ?」と思っていると、なんと六本木の寿司屋で偶然再会!その日のうちに意気投合し、内田が「今日、お宅に泊まってもいいですか?」と告げ、樹木も「ええ、どうぞ」と答え、この日から同棲を始めわずか1ヶ月後にスピード結婚。2人の結婚式はデニム姿で場所は築地本願寺、仲人なし、式場料金9500円の超地味婚だったという。
こうして2人の結婚生活がスタートした。
その結婚生活は半端ないものだった。内田は酔うと暴れ出していた。すると樹木は黒電話を叩きつけて対抗。そんな内田に我慢の限界を迎えた樹木は、内田用のマンションを別に借り、鍵を渡して追い出した。
この追い出し事件から6年後の1981年、なんと内田は一方的に樹木との離婚届を提出し、そのまましばらくハワイへ。帰国した内田は記者会見を開き、「ちゃんと届けを出した以上、僕も覚悟してるし、もう一度帰るってことは無いですね」という。
一方樹木も取材陣に答え、怒るどころか、喜ばしいことだと答えた。
そして、樹木は裁判で戦い続け勝訴。離婚を無効にした。樹木は、内田の純粋さに生涯惹かれていたという。也哉子さんも「裕也にこだわったというよりも母自身が、裕也っていうカオスな存在を人生に必要としてたと思うんですね。それはハッキリ言ってましたし」と振り返る。
しかしその後も内田は浮気を繰り返していた。ある年、ホノルル空港で芸能人を待ち受ける取材陣の前に現れたのは内田と有名女優だった。映画共演をきっかけに、内田と交際したという。
その後ろからCM撮影でハワイを訪れた樹木と、也哉子が登場し、取材陣はざわめきだす。なんと夫と愛人の不倫旅行と同じ飛行機に乗っていたのだ。
1995年には、也哉子は本木雅弘と結婚。実は2人を引き合わせたのは内田だった。結婚の5年前、内田と樹木は別居していたため也哉子は年に1回、父の日にだけ内田と会っていた。 にもかかわらず内田はその約束をすっぽかし、その翌日に「今、寿司食ってるから来いよ」と呼び出し。也哉子がそのお店に行くとそこにたまたま本木が同席していたのだ。
その後2人は文通を始めやがて交際。そして結婚を決意。
こうして、本木は一人娘・也哉子のもとに婿入りをし、それから数年後2世帯住宅で、樹木は一緒に住むことになった。
2000年代に入ると樹木は病魔と闘い始める。2003年、網膜剥離で左目を失明。2005年には乳がんを発症し、右乳房の全摘出手術を行った。
樹木は2007年に公開された映画「東京タワー オカンとボクと、時々、オトン」で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を獲得。映画「万引き家族」では、数々の映画賞を受賞。カンヌ映画祭最高賞受賞にも貢献した。2018年には「万引き家族」を含め、5本の映画に出演。初めての海外作品である「命みじかし、恋せよ乙女」は彼女の遺作となった。
2018年8月、大腿骨を骨折した樹木は入院。体も次第に衰弱し声を出すことさえ辛そうで、筆談が多くなった。
2018年9月15日、樹木は家族に看取られて、静かに息を引き取った。樹木が亡くなる間際、内田と電話をつなげていた也哉子さんは「(樹木の)本名が啓子っていうんですけど、(内田が)啓子!啓子!しっかりしろ!って言ってるのは聞こえました。その裕也の声を母の耳に近づけた時に孫のUTAが手を握ってたんですけど、裕也の声が聞こえた途端ギュ〜って手をすごく強く握ったって。だから、娘の私にも計り知れない、切っても切れない縁なんだなっていうことは強く感じました」と話す。
樹木の葬儀には1500人もの参列者が詰めかけた。
樹木が亡くなって数日後、也哉子が遺品を整理していると一通のエアメールが見つかった。それは結婚して1年経った1974年に、内田がロンドンから樹木に送ったエアメールだった。也哉子は葬儀で読み上げた。
44年も前のエアメールを樹木は大事に保管し続けていたのだ。
そして、樹木が亡くなってから半年後、後を追うように内田も亡くなった。
最後には2人らしいエピソードも明かされた。それは樹木の火葬が行われた時、内田は骨壷のフタを閉じるという時に「ちょっと待ってくれ!」と車椅子から立ち上がり樹木の骨を手にとり、ハンカチに包みポケットへしまったという。突然の出来事に、周りの家族や知人も驚き、同時に、内田の愛情の深さに感動した出来事だった。
が、それから数週間後、也哉子のもとに訪れ「やっぱ、怖え〜な!返すからさ、そっちで、ちゃんとヨロシク!」と遺骨を返してきたという。
也哉子さんは「自分が手で拾った大切なお骨を家でどうしたらいいか分からなくなり、お家にあるとなんかずっと気配を感じ、なんか怖くなっちゃったみたいで、それもまた裕也らしいというか」と振り返った。
樹木希林と内田裕也、最後の最後まで不思議な夫婦だった。