昭和のスターも搭乗した日航機のハイジャック事件 犯人は意外な素性の男

1972年11月6日。羽田から福岡空港へ向かう日航機の中で、200万ドル・当時の日本円でおよそ6億円を要求するハイジャック事件が発生。警察や日本航空は大胆かつ勇気ある方法で対抗した。この事件について、裁判資料と当時の関係者への取材を基に再現ドラマで紹介した。

マスクを被った犯人の脅迫文書には「我々は、それぞれ一キロ爆弾四個、三キロ爆弾二個、ピストルを持っている。我々は政治活動の資金を必要として次のことを要求する。一、金200万ドル、二、我々の目的地はキューバである。コースはバンクーバー市、メキシコ市で燃料補給しキューバに政治亡命するものである」「今、我々の政治団体の名は明らかにしない。いずれわかることであるから」と書かれていた。

飛行機は、旋回し羽田空港へと戻ることになった。そのころ東京の本社では専務が、警察では空港警察署の全署員が対応にあたることになった。羽田空港内にある日航のオペレーションセンターでは警視庁の刑事たちが日本航空の常務らと共にハイジャック対策委員会を設置。警察官が怪しまれずに飛行機に近づけるよう50人分の作業服を用意した。

このJAL351便のベテラン機長は7年前、アメリカ、サンフランシスコを離陸しハワイのホノルル経由で羽田に向かうJAL813便で起きたエンジンの爆発事故を切り抜けたパイロットだった。副操縦士は機長昇格を間近に控えた30代の若手パイロット。エンジニアである機関士は、当時乗務員の人手が足りず、日本航空に派遣されていたアメリカ人だった。

この飛行機には昭和の大スターの2人、江利チエミ、三田明が乗っていた。三田は1年ほど前に突如、所属する事務所が倒産。事務所が三田名義で借金を重ねていたため当時24歳ながらその借金を背負うことになっていた。その額、1億5000万円。そんな危機的状況に、ある化粧品会社社長が提案した全国巡業の仕事をセッティングしてくれたのだ。江利も三田と同じショーに出ることになっていた。

1971年11月、ハイジャックの1年前。犯人の男はアメリカ、ロサンゼルスに住んで27年になり、アメリカの永住権を持ち、自らをポールと名乗る日本人だった。

ある日、男の運命を変えるダン・クーパー事件を知る。1971年11月24日、ノースウエスト・オリエント航空305便でダン・クーパーという男が乗務員を爆弾で脅し、乗客乗員を人質にし、現金20万ドルとパラシュートを要求。一旦飛行機を空港に着陸させ、地上で現金20万ドルとパラシュートを手に入れメキシコを目指して飛ぶように指示。そして高度3000mから20万ドルと共に飛び降りたのだ。その後、男は見つからず未解決事件となっている。

その事件を知った男は、この事件を模倣しようとハイジャックの計画を立てる。アメリカで拳銃を購入し、射撃の練習をし、手作り爆弾を作っていた。そしてハイジャック事件の3か月前、男はアメリカの空港を下見。持ち込み荷物のチェックの厳しさを知り機内に拳銃や爆弾など持ち込めそうにないと判断。

一方、サンフランシスコ空港にある日本航空の営業所にも訪れ、日本の国内線は、当時そこまで厳しい手荷物チェックをしていないことがわかり日本での犯行を計画。アメリカから日本に持ち込むにあたり、調合した火薬を靴下に入れ、拳銃と共に、機内に持ち込まないスーツケースに紛れ込ませた。

東京都内でパンの販売店の息子として生まれたこの男は、太平洋戦争が激化し始めた頃19歳で陸軍飛行学校へ入学。戦後は、在日アメリカ軍人を相手に日用品を売って生計を立て英語を身に着けたという。その後23歳のとき、仲良くなったアメリカ軍人の手引きで渡米。サンフランシスコ周辺の農場で、日雇いで働きながらカリフォルニア大学の演劇科に入学。

そこで一人の日系人女性と出会い、出会いから3年、男は大学を辞め結婚。その頃からグレーな方法で金を稼ぐようになった。自分の結婚式には、妻の父親の名前を利用してロサンゼルスの有名人たちを大量に招待。ご祝儀で900万円も儲けたという。さらに新聞でハリウッドなどの有名人の死亡記事を見て、全く面識のない有名人の葬儀に参列し大号泣。有名人の葬儀に出続けるうちに「すごく顔が広いんだろうね」と次第に有名に。日本の映画人たちの橋渡し役にもなっていた。

また、アメリカの中古ゴルフクラブを日本に安く卸す会社も立ち上げるなどかなり儲かっていたという。が、1960年代後半から海外への渡航者が激増、アメリカで暮らす日本人も増え、男は貴重な存在ではなくなった。事業は傾き、妻の稼ぎで暮らすようになり、惨めな気分の中起こったのがダン・クーパー事件だった。男は一攫千金を狙い、ハイジャック計画を考えるようになったのだ。

男はロサンゼルスを出発、ハワイで2日間過ごした後、10月31日、羽田空港に到着。男は福岡行を予約した。これは犯行のための下見で、その便で状況を確認した上で帰りの福岡発羽田行でハイジャックを決行しようと考えていた。

そして羽田空港で、日本でも機内持ち込みの荷物に対して金属探知機を導入していたことを知る。しかし当時はX線検査ではなく金属に反応する機械だったため土産物の缶詰めにも反応してしまうもの。全員の手荷物を確認することは不可能と考え、政治的な事件を起こしそうな若年層に絞って荷物のチェックをしていたのだ。男はこのとき47歳で自分はチェックされないと確信した。

機内ではキャビンアテンダントの様子などを観察。福岡に到着すると偽名を使い、ビジネスホテルに宿泊。翌日、福岡市内で鉄パイプなどを購入し部屋にこもり、4日かけて爆弾7個を作りハイジャックの準備を終えた。

11月4日、男はハイジャックを決行するため福岡空港へ。しかし福岡で増えた荷物が重量オーバーで地上職員にしっかり顔を見られてしまった。さらに大幅に飛行機が遅れたことで武器の持ち込みが発覚したのではないかと不安になりこの日のハイジャックを諦めた。11月5日のハイジャック前日、東京へ戻ると、翌日の羽田から福岡に向かう便でハイジャックをすることにした。

1968年〜72年のわずか4年の間に起きたハイジャック事件はアメリカだけで130件以上にものぼっていた。当時は冷戦時代で世界は資本主義を掲げるアメリカを代表する西側諸国と、社会主義を掲げる旧ソ連を代表する東側諸国は対立。核戦争を始めるのではないかと世界は緊張状態にあった。そんな西側と東側を当時は簡単に行き来することができず、西側の資本主義に異論を持つ者たちなどが東側に亡命する手段や、異議申し立ての手段、あるいは活動資金獲得、政治犯釈放を目的として飛行機をハイジャックすることが頻発。日本でも発生しており、1970年3月31日、通称よど号で日本初のハイジャックが発生。赤軍派を名乗る20代の男女9人が乗客乗員129人を人質に、北朝鮮行きを要求していた。

ハイジャック当日、JAL351便は巡航高度およそ8500m地点に到達。男はトイレに隠れ、キャビンアテンダントがコックピットを訪ねる合間を狙いコックピットへ潜入。キューバ行きを要求した。キューバ行きはこの犯行を赤軍に見せかけるためだった。

赤軍の思想は社会主義や共産主義。キューバは社会主義国家なので、キューバ行きを命じれば赤軍による単独ではない複数人の犯行だと思われ犯行がスムーズに行くと考えたのだ。

キューバ行きを命じるには飛行機の機種も重要だった。狙ったのは国際線にも使われる長距離用飛行機・DC8。福岡-羽田間の便はDC8であることを確認していた。

管制は羽田に降りるよう指示。しかし、男は金が用意できるまでは地上に降りるなと指示した。地上で対応した日本航空の常務は燃料が尽きるまでの時間は11時と予想。燃料がなくなれば墜落してしまうが、着陸したときに金が無かったら犯人が何をしでかすかわからない。とにかく必死に100ドル紙幣2万枚を集めるしかなかった。

その時、男にとって予想外の事実が発覚する。それはこの機体はDC8ではなく、短距離用のボーイング727だったのだ。男は10月の時刻表を確認しDC8が飛んでいたと把握していた。しかし、国際線の利用増加によって11月から国内線は短・中距離用のボーイング727に変わっていた。そして機長は「ぼくらは3人とも、海外は飛んだことがない」ととっさに嘘をついた。

すると男は「DC8とパイロットを駐機場に用意するよう伝えろ」「パイロットの名前も知らせろ」と要求。常務はDC8と乗務員をすぐさま手配した。

この前の年、韓国で発生したハイジャックでは犯人が手榴弾を爆発させ乗員に死者が出ている。アメリカでも乗客に死者が出るハイジャック事件が起きていた。乗客の安全を最優先に考え日本航空は犯人の要求に全て応えるしかなかった。

機長は、「(乗客に)羽田へ戻ることも伝えていない。乗せ換えるのであれば、きっと混乱するはずだ」と乗客にハイジャックを伝えた。

乗客にハイジャックの情報が伝わった頃、地上では、刑事部長をトップにした捜査本部が乗客名簿から外国人の身分を洗い出していた。さらに乗客120人分の身元を洗い出し、全員の親族、関係者にあたり思想や活動歴がないかも捜査するよう指示。

上空では燃料のリミットが迫っていた。10時半には燃料がなくなると男に伝えるが、金の用意が先だと一点張り。そして燃料のタイムリミットが迫る頃、200万ドルが用意され、着陸を行うことになった。

JAL351便が羽田へ戻ろうとしていたとき、地上では滑走路が全面閉鎖され機動隊員およそ700人が集結。そして空港整備員の黄色いカッパを着て変装した刑事たちが待ち構えていた。さらに、あらゆる事態に備え元オリンピック選手を含むライフル隊も配置についた。

男は、人質の乗客も全員DC8に乗せ換えてキューバに連れ出そうと考えていた。そしてキューバへ向かう途中のアメリカ上空でパラシュートを使って脱出する計画だった。

12時頃、DC8はハイジャック機から500m離れた場所に駐機。警察はできる限り交渉を引き延ばし情報を集め、体制を整える。その間、乗客たちの身元が次々と明らかになっていっていた。

羽田に着陸したDC8には乗務員と共に変装した刑事たちが乗り込んだ。なかなか用意されないDC8に男は痺れを切らしていた。これ以上は引き延ばせないと思った警察たちは1時20分、DC8がハイジャックされた機体のおよそ50mまで接近。DC8の頭をハイジャック機に向ける形で駐機させた。

男は自分の荷物をDC8前に置くよう指示。2時過ぎ、空港職員に扮した警察官が、ハイジャックされた飛行機から逃走のために用意したパラシュートが入った手荷物を運び出しDC8のタラップの前に置いた。犯人の要求通り現金200万ドルはDC8内に置かれた。

男から現金の確認に行かされたCAから情報を得た警察は単独犯だと知ると、人質の救出と犯人確保へ一気に舵を切った。

警察の作戦は、まずDC8をハイジャック機に横付けさせ、ハイジャック機から乗客が降り始めたところで反対側から日本航空の常務が直接交渉を開始。そのとき、バスが犯人に見つからないように近づき乗客を乗せ脱出を図るというものだった。

2時40分頃、CAの指示で乗客たちが飛行機を降り始めた。一方日本航空の常務は犯人との直接交渉のためハイジャック機に近づき交渉を行う。そして計画通り、乗客が降りるタラップの反対側に回り込んだ。この隙をついてバスに乗客達を乗せていく。

三田から「乗らないんですか?」と聞かれた江利は「こういうとき、私たちみたいな芸能人は一番最後。我先に乗ったら恰好がつかないでしょ?」と答えたという。

その頃、犯人はバスの存在に気づいてしまう。暴れる犯人に常務が必死の説得をするうちに、乗客全員を乗せたバスが脱出した。

男は機長、副操縦士、機関士を人質にDC8へ向かった。そしてDC8へと入っていく犯人へ警官が突撃。男は7人の警官に取り押さえられ逮捕された。

幸いにも怪我人はいなかったが、男は犯行の計画性や手段や日本航空に与えた損害や影響などから懲役20年が求刑され、その後、刑が確定した。

この事件の後、日本の航空各社は機内持ち込みの規制を厳重化。さらに警察は、乗客の命が最優先ではあるものの犯人逮捕のための強行突入なども視野に入れた訓練を空港や各航空会社と連携し強化。今でもSATやSITといった特殊部隊がハイジャックに対応する訓練を行っている。また日本では2000年代に入ってから、航空機内での特殊訓練を受けたスカイマーシャルという警察官が万が一のハイジャックに備え乗客を装って客席に潜むこともあるという。

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