
ある母親が突然、失意のどん底に突き落とされた。そして母親は復讐を誓った。どんな脅しにあっても母親はその手を緩めなかった。この復讐劇を関係者への取材、裁判資料等をもとに再現した。
兵庫県尼崎市、堀江ひとみさんは大阪のデパートにある呉服店で働いていた。ひとみさんにはまやさんという娘がいた。まやさんの父親は重い病で長期間の入院が続いていたため実質2人での生活。まやさんは高校卒業後、東京で1人暮らしを始め、長い休みになれば母のもとへ帰省していた。
事件当時、関西を中心に全国で激化していたのが暴力団の抗争。元々神戸で結成された山口組は対立抗争を繰り返しながら様々な暴力団組織を傘下におき、日本全国へその勢力を急速に拡大していった。戦後数十人ほどだった組員は、1980年頃には1万人を超えていた。その山口組を束ねていたのが3代目組長・田岡一雄だった。
しかし1981年その田岡が心不全で亡くなり、跡目の最有力だった若頭も翌年に病死した。するとその跡目を巡って内部分裂が始まり、1984年6月、山口組4代目組長を竹中正久が襲名したものの、それを認めない勢力が一和会を結成し対立。その2ヶ月後、山口組系の幹部が一和会幹部を刺し殺したことから「全面戦争」かとマスコミも騒ぎ立てていた。そして山口組の竹中組長らが一和会の構成員によって大阪で銃撃された。これにより竹中組長は死亡。
組長を殺害された山口組は一和会に報復を繰り返し、それに一和会も応戦。この混乱に乗じた様々な暴力団の抗争も各地で起こっていた時代だった。
一方1980年代、世はバンドブーム。まやさんも高校時代の友達とバンドを組んだがドラムの練習場所に苦労していた。すると、近所に住む女性からの紹介で、家から徒歩15分のスナックで掃除に入る2時間ほどドラムを使わせてもらえることとなり、アルバイトとしても店を手伝うことになった。その後もまやさんは尼崎に帰省している間、このスナックに通った。
1985年9月23日、まやさんは帰省していた。その夜このスナックを尋ねた男がいた。「あんたがここのマネージャーか」と男はスナックのマネージャーにむけて銃を撃った。撃たれたマネージャーは山口組系暴力団の組員だったのだ。この数日前に奈良で起きた、山口組系の組員が対立する暴力団の組員を刺し殺した事件の報復の犯行だった。
その発砲した弾がまやさんに撃ち込まれたのだ。銃弾はまやさんの腹部を貫通。まやさんは徐々に心拍が弱まり翌朝息を引き取った。一方、狙われたマネージャーは、胸を銃弾が貫通したものの一命をとりとめた。
悲しみの中、まやさんの葬儀はひとみさんが取り仕切った。その会場には撃たれた側の山口組系の暴力団が現れた。「あいつらのせいで娘は巻き込まれた」と強い怒りを感じたひとみさんだったが、焼香をしたいという申し出を受け入れ「ヤクザはここに並ばせてください」とわざわざ「ヤクザ」と紙を貼り区別して並ばせた。ひとみさんはこの中に犯人と関係がある奴がいるかもしれない、または、犯人を知っている奴がいるかもしれないと思い、焼香をさせたのだ。
四十九日を過ぎた頃、ひとみさんは「まや、絶対に仇は討ったる。せやから待っといて。ママをしっかり見守っといて」と復讐を誓った。まずは警察へ行き「ちゃんと捜査やってんの?動いてんの?いつまで経っても捕まらへんやん!」と毎日のようにプレッシャーをかけた。実は、激化していた山口組と一和会の「山一抗争」などの対応に追われ、まやさんの事件の捜査は難航していたのだ。
ひとみさんは「あんたらが動かへんのなら、片っ端からヤクザのとこ行ったるわ!」と犯人への憎しみを警察にぶつけ、一部の刑事は捜査の合間を縫って自主的にひとみさんの家に通い、話をしたという。
だが一向に捜査は進まず、半年、1年と過ぎていく。そんなある日「お母さん、犯人を捕まえました」と連絡が入る。ついに山口組系と対立する組の男が実行犯として逮捕されたのだ。事件からすでに1年半が経っていた。
裁判で、男はまやさんと山口組系組員を撃った事実を素直に認め、殺人罪と殺人未遂罪で懲役18年が確定した。
この時、ひとみさんの脳裏に「もしかしてこの犯人、前に会ったことがあるかも」とある光景が浮かんでいた。
その後、殺人を共謀したとして実行犯がいた組の幹部が逮捕され、さらに組長も逮捕、起訴された。しかし組長は自分の指示ではないと容疑を全面的に否認。さらにその後、実行犯の男も「組長の指示だった」と裁判で証言することを拒否。組長は無罪になる可能性もあった。
そんな中、ひとみさんは娘の仇を取る方法を見つけた。その復讐の方法はヤクザを潰すことだった。この時代はバブル景気で、暴力団もその流れに乗りその勢力を拡大していた。その収入源は主に、覚醒剤の密売、競馬などのレースで独自の馬券を売る「ノミ行為」、飲食店に用心棒代を強要する「みかじめ料」など、いわゆる地上げや闇金など、暴力団の威力を背景に不当に利益を得ていた。
暴力団は組員がその組の所属であると名乗ることができる代わりに、それぞれが稼いだ金を組に納めるというシステム。そうして毎月億単位の金が暴力団の中枢に集められる。この頃には暴力団は次第に吸収・統合され大規模化。最も大きい山口組の勢力は組員2万人を超える巨大組織になっていった。そんな強大な相手をひとみさんは自分の手で潰したいと弁護士に相談して回った。が、ほとんどが話をろくに聞いてくれなかった。
ひとみさんは「それやったら、自分でやります!」と仕事がない休日に図書館に通いつめまずは法律を勉強し、学生にも勉強を教わった。
その後も、弁護士を探しては断られ続けたがその執念が実る。事件から6年が経った頃垣添誠雄弁護士と出会った。彼はひとみさんの話を初めて聞いてくれる弁護士だった。垣添弁護士は「もうすぐ暴力団対策法という法律ができます。そこで初めて暴力団が法的に定義されるんです」と説明。それまで、暴力団という組織は法律上では存在せず、彼らの行為を法律で裁くのは難しかった。
例えば、飲食店に対し用心棒をする見返りに金銭を要求する「みかじめ料」を拒否した場合、そのお店に対し嫌がらせ行為をすることがあったが、当時はこういった暴力団の資金源となる行為を取り締まることが難しかったのだ。しかし「山一抗争」など、暴力団の事件の規模が大きくなっていったことから、暴力団の弱体化を図るため国会に「暴力団対策法」の法案が提出されていた。
そして垣添弁護士は「その上で使用者責任を問います」と提案。その内容は「たとえば、ある会社の従業員が誰かに損害を与えたとします。従業員はもちろんですが、従業員を雇っている会社にも損害賠償を請求できるんです。つまり、暴力団が法的に組織と定義されれば、組長に使用者責任を問えるかもしれない、そういうことです」と組長を訴える方法だった。
すでに行われている殺人罪などを問う刑事裁判に加え、使用者責任を問う民事裁判を起こし、徹底的に組長を追い詰める。殺人罪などは組長が指示したかどうかが大きな争点だが、使用者責任の裁判では「暴力団」という組織としての責任を組長に問うことになる。
1992年3月、暴力団対策法が施行。組長を使用者責任で提訴できる可能性が出てきた。そんな中、ひとみさんはずっと心に悶々としていることに決着をつけようと思った。それは娘の命を奪った実行犯の男と面会だった。
組長の殺人罪を問う刑事裁判で組長の指示だったと実行犯が証言すると思われていたが、男は証人としての出廷を拒否していた。その説得をしたかったことに加えどこかでひとみさんは、犯人とどこかで会ったのではないかと思っていた。それを確認するための面会でもあった。
ひとみさんは「あんた、摩耶山の寺に花を売りに来てへんかったか?」と聞いた。神戸市にある摩耶山の寺にひとみさんはまやさんを連れてよく遊びに来ていた。まやという名前も摩耶山から取ったものだった。そんな時、母親とともに切り花を売りに来ていた中学生で、まやさんとよく遊んでくれた中学生の面影が、実行犯の男にあったのだ。
まやさんの命を奪った男は、偶然にも昔まやさんを可愛がっていた男だったのだ。犯人の男は「すんません。ほんますんません!」と自分は騙されて暴力団に入れられ脅されて仕事をしていたとひとみさんに話したという。ひとみさんは「まやを殺したことは絶対に許さへん。せやけど事情はわかった」と伝え、ひとみさんは組長の使用者責任を訴える民事裁判を起こした。
その時には垣添弁護士以外にも民事介入暴力対策委員の弁護士が有志で集まり弁護団を結成していた。一般市民が暴力団組長を使用者責任で訴えるという裁判にメディアも注目。そして傍聴席には暴力団風の男たちが押し寄せた。
するとその頃から、ひとみさんの身の回りでは何者かが付きまとったり、家の前の道路で男が見張っていたりと、常に脅しが。そんな中暴力団対策法ができたことで警察による暴力団対策が強化され、ひとみさんは保護対象者となった。交番勤務の警察官にこの家を巡回コースにしてもらい2時間に1度は誰かが来るようになった。朝と夜、通勤の際は最寄り駅まで刑事が警護、移動中は、防犯ブザーを常に首から下げていた。大阪の勤務先では地元警察署が警備を行った。それでも、裁判に出るたびに暴力団が押し寄せた。
ひとみさんは、世間にも暴力団と闘う気持ちを知ってほしいと積極的にメディアの取材に応じた。しかし裁判は膠着状態。加害者と事件のことを知ってから3年経つと使用者責任で賠償請求できなくなると民法で定められており、裁判を起こしたのは、加害者つまり組長のことを知ってから3年半が経つ頃。組長の弁護側はこの点ばかりを指摘してきた。
前例のない裁判のため遅々として進まず、2年以上経った頃、裁判官は和解を勧告。民事訴訟の場合裁判所が和解案を提示し、原告・被告双方が応じれば和解成立。その場合、判決は出ない。ひとみさんは「組長が認めるまで、和解なんて絶対にしません!」と譲らなかった。
しかし、数ヶ月後ひとみさんは「決めました。和解に応じます。その代わり条件があります。組長の謝罪です。組長に心から謝ってほしいんです」と決断。組長側は条件をなかなかのまなかったが、同時に進んでいた組長への殺人罪などの刑事裁判でひとみさんとの面会の後、実行犯の男は組長の関与を裁判で証言。
これにより組長は一気に有罪に近づいていた。そんな状況と、ひとみさんの絶対に引かない姿勢に、事件から約10年、使用者責任の裁判を始めて約3年、ついにその日が来る。
和解条項に「被告は、暴力団の組長の立場にあるものとして原告の長女堀江まやを殺害したことに対し深く謝罪する」と文章上ではあるが「謝罪」の文字が記されたのだ。
ついに暴力団のトップが謝罪。一般人が暴力団の組長を使用者責任で訴え実質的に勝訴した日本初のケースとなったと報道された。さらにその後、刑事裁判で組長には殺人罪と殺人未遂罪で懲役15年が言い渡された。しかし組長はその後最高裁まで争い、さらに刑務所を出所後も再審請求を行うなど、冤罪だと今でも主張し続けている。
組長への判決後、ひとみさんは「被害者の親としては大変不満があります。出てきて何するかっていったら組織の立て直ししたらまた被害者が出てくるんじゃないかなと思います」「和解で終わらせるつもりはありません。これが始まりです。私はこれから暴力団を追放するために闘います。それがまやの本当の仇討ちです」と話していた。
そしてひとみさんは和解金を使い「まや基金」を創立。そして、「暴力団被害者の会」を結成。警護の刑事がつきながら自らの経験を広め、暴力団を追放すべく全国で講演活動を行った。また、実際に暴力団の抗争事件で一般人が巻き添えになってしまった時は、その遺族のもとへ足を運んだ。
この一連のひとみさんの行動や、周囲の取り組みが基盤の1つとなり2005年には「犯罪被害者等基本法」という被害者の支援や、保護などを行う法律も施行され、さらに2007年に政府が出した「企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針」や各自治体の「暴力団排除条例」などにより暴力団の活動を制限。組員は銀行口座を作ることや、不動産契約をすることが困難に。
さらに、2008年に暴力団対策法が改正され、組織トップの責任が明記されると暴力団トップを訴える被害者が増え、勝訴するなどしている。暴力団への締め付けが強くなったことで、市民はその恐怖に立ち向かう勇気を得たのだ。
2012年4月、77歳で亡くなったひとみさんは、晩年に移り住んだ静岡県・伊豆の小さなログハウスを「まや荘」と呼んだ。