幼女連続殺人犯 宮崎勤元死刑囚の真実とは…残虐な犯行の謎に迫る

1989年8月、連続殺人犯・宮崎勤が逮捕された。宮崎は埼玉県と東京都で幼い女の子4人を誘拐し殺害。今田勇子という名で犯行声明文を送りつけ、多くの国民を恐怖に陥れた。宮崎はなぜ残虐な事件を起こしたのか? 裁判資料・関係者への取材に基づき再現ドラマで紹介した。

事件は1988年8月22日、埼玉県入間市に住む女の子が行方不明となったことから始まった。およそ1か月後の10月3日、飯能市で7歳の少女が同じように突然姿を消した。その2か月後、川越市で4歳の女の子が行方不明に。

そんな中失踪から6日後、3番目に行方が分からなくなった女の子の遺体が埼玉県名栗村の山林で発見された。こうして連続失踪事件は殺人事件となった。

そして、その1か月半後の1989年2月。最初に行方不明になった女の子の自宅に、人骨の一部が入った段ボール箱が届けられた。さらにその5日後、今田勇子と名乗る人物から新聞社や被害者のもとへ犯行声明文が届いた。およそ4800文字にも及ぶその文面は、角ばった特徴のある文字で、誘拐や殺害の具体的な状況や届けた骨が本人のものだとする内容だった。

その年の6月にはこれまで埼玉県内で起きていた幼女の失踪が4件目にして初めて東京都内の東雲で起きた。行方不明となったのは5歳の女の子で、5日後埼玉で遺体で発見された。警視庁は埼玉県警と合同捜査体制を取ることとなった。

1か月後の7月。未だ警察が犯人を特定できていない中、東京・八王子で少女への強制わいせつで現行犯逮捕された男がいた。それが宮崎だった。

そして宮崎の身辺を調べることになり、1989年8月、大峯警部補が宮崎の実家を訪ねた。宮崎の部屋を訪れた大峯警部補は、およそ6000本の大量のビデオテープが高く積み上げられた部屋を見る。

翌日、大峯警部補は宮崎の取り調べに臨んだ。取り調べに入ってから7時間、趣味を聞くと「カメラとビデオ」と答える宮崎。どこで撮影するのかと聞くと、“テニスの森”だと答えた。そこは4件目の事件があった東雲と目と鼻の先だった。

大峯警部補はビデオだらけの不気味な部屋で暮らしていた男に「何かある」 と感じ、宮崎の車に付着していた血液について問い詰めていった。そして問答をしていくと、宮崎が事件について語り始めた。

東京・五日市町の宮崎家は地元では名家として知られていた。祖父が町会議員、父親は印刷工場と新聞社を経営。長男である宮崎は跡取りとして期待されていた。そんな宮崎は生まれつき手に先天性橈尺骨癒合症という障害を持っていた。それは多くの場合生まれつき手のひらを上に向けられないというもので、宮崎は幼いころからこの障害を人一倍気にしていた。そんな宮崎の心の支えは優しい祖父の存在だった。

宮崎は短大を卒業後一度は就職するが長続きはせず、家業を継ぎ、外回りや配達などの仕事をしていた。だがその仕事をさぼっては、テニスルックなどの女性の写真を撮ることにのめりこんだ。さらにこの頃、夢中になったものがビデオ収集だった。

集めていたのは子供番組やアニメ、怪獣映画。どれも幼いころ祖父と一緒に見たテレビだったという。祖父は、宮崎が25歳のとき脳溢血で倒れ帰らぬ人になった。そのとき、宮崎は、祖父が可愛がっていた犬の鳴き声を録音したテープを枕元で聞かせ始めたという。

宮崎は取調室で東雲での事件に関して話し始めた。公園で一人で遊んでいる女の子に声をかけ、怪しまれないように5mくらい後ろを歩かせて車に乗せてしばらく走った後、女の子が手の事を言ったため、腹が立ち、首を絞めて殺したと供述したという。

そして宮崎を同行させ、まだ見つかっていなかった被害者の遺体の一部を捜索。すると供述通り、奥多摩の山林で頭蓋骨が見つかった。宮崎は未成年者誘拐殺人罪、並びに死体遺棄で逮捕。殺人事件の捜査本部がある深川署に移送された。

そこで宮崎は全てを語り始める。祖父が亡くなって3か月後の8月22日、最初の事件を埼玉県で起こす。 幼女に声をかけ車に乗せて八王子方面に走り、泣き出したので首を絞めて殺害。その動機を取り調べで語った実際の音声がある。女性に相手にされないが、誘拐すれば簡単に子どもが持てると供述したという。

この犯行から1か月後、さらにその2か月後、第2・第3と繰り返し幼女を誘拐し、殺害。3人目の女の子を殺害した2か月後、宮崎は半年前に殺害した1件目の被害者の遺骨を段ボール箱に詰めて、その女の子の自宅玄関先に置いたのだ。段ボールを届けたことで事件は大ニュースになり連日報道された。ところが、埼玉県警はその骨を「精査した結果(被害女児の)歯牙とは異なるものと認められる状態にある」と発表。

その日のうちに宮崎は 「遺骨入りの段ボールを置いたのはこの私です」と「今田勇子」として声明文を出した。自らを「所沢に住む今田勇子」と名乗り、犯人があたかも埼玉県に住む女性であるかのように装ったのだ。その後、届けられた骨は本人のものであることもわかり、「今田勇子」という名に日本中が注目することとなった。

では、なぜ宮崎はこの名前を使用したのか?宮崎は変な名前にすると見る前に破られてしまうと思い、ありきたりな名前にしたという。

特徴的な字体については、滅多に人が書かないような字にしようと思ったと供述。

さらに、東京で起きた第4の事件で少女を埼玉県に遺棄し、一連の事件を埼玉の女性の犯行と装ったことについて供述し、こうして4件の幼女連続誘拐殺人事件はすべて宮崎の犯行であることが明らかとなった。

裁判では一貫して罪の意識を自覚していないような発言をし、関係者をやりきれない思いに突き落とした。そして1997年4月14日、宮崎に死刑判決がくだった。2008年6月、死刑執行。遺族に対し、謝罪の言葉を述べることはついになかったという。

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