昨年芸能活動50周年を迎え、今年70歳となる。司会の黒柳徹子が「3歳からお始めになったクラシックバレエ。人生のプロデューサーだったお母さまの影響が」と切り出すと、小柳は「名プロデューサーですね。ルミ子のここがいいところ、ここが良くないところ、そういうところをちゃんと見抜いていいところをちゃんと引っ張っていってくれる。母が敷いてくれたレールをずっと歩んできたっていう感じです」と力を込めた。
中学を卒業して宝塚音楽学校に入ったのも母親が決めてくれたことだとし、母については「気が若くて、本当に明るくて」と小柳。自身が歌手となったのは「歌が大好きでね。昔は音楽学校でないとプロになれなかったらしいんですね。でも女の子を産んで、絶対歌手にするっていう」と母の思いであったと明かした。「だからやっぱり母がいなくなって、やっと自分の足で歩かなくてはいけないなというか」と前を向いた。
自身にとって、今でも救いになってというのが、病床の母がまだ話ができるときにかけてくれた最後の言葉「ルミ子、もう頑張らんで良かよ。今までさんざん頑張って来たんやから。ルミ子は幸せで楽しいのが一番」だったという。「今までずっと『ルミ子、がんばりんしゃいよ、がんばりんしゃいよ』って言われてきたのが」とし、「やっと認めてくれだなと思って。それから凄く気持ちが楽になって救われましたね。たぶん『ルミ子、がんばりんしゃいよ』って言われると思ってたので。今でもあの光景は鮮明に思い出します。あたしの手を握りながら」と涙ながらに語った。
母の最期の瞬間は、静岡でディナーショーがあり、立ち会うことができなかった。「リハーサル前に九州の病院の先生から電話があって、『危篤です』と」と小柳。「『これからリハーサルがあるので、母の耳元に受話器を置いてください』って。で『瀬戸の花嫁』を受話器に聞こえるように歌って。それでリハーサルが終わって、14時52分に。『今、息を引き取られました。とっても幸せそうな優しい笑顔でした』って」と明かした。
黒柳が「お母さまは幸せだったでしょうね」と語ると、小柳は「そうですね。だからあたしはなんでディナーショー当日に、あたしがどんなに無理しても帰れない日を選んだのって。これは最後の母の教えなんだなと。おかあちゃんが死んだからって、ちゃんとプロとしてステージに立ちなさい、そういう教えだったんだろうなと思います」と気丈に語った。
翌日福岡の病院で母と対面。「穏やかな本当に優しい笑顔で亡くなっていて。お医者様が『これが枕元にありました』って一枚の紙を渡された。それを見たらもう立っていられないぐらい、崩れ落ちちゃって。母が最期に書いた言葉なんですよ。意識ももうろうとして、ペンも持てないくらい、でも、ちゃんと読めました」と振り返り、手紙を初めて公開した。
黒柳が「ルミ子へ ルミ子のお陰で幸福な人生でした ありがとう 母より」と内容を読み上げると、「『もう頑張らんで良かよ、さんざん頑張ってきたっちゃけん』って言われたけれど、やっぱり頑張っている自分がいて。ああ、これもお母さんの娘だなって思うんですよ」としみじみと話した。