帝京大から三洋電機入りし、ニュージーランドへのラグビー留学も経験。日本代表でW杯4大会連続出場するなど、最前線のキーパーソンとして長年、活躍した。
初めて買った愛車は、ニュージーランドだったという。「初めの何カ月は、試合に行くのに自転車やったんですよ。紙に地図を書いて、それをセロハンテープで張って。遠くて、車必要やなと思って。知り合いに“何でもいいからオートマで安いやつを(とお願いした)”」と話した。
当時はNo・8だったが、体格的な問題からフッカーへのコンバートを決意したという。「代表とか上を目指すには身長が足りなかった。上を目指すならフッカーやらなあかんというので、フッカーを勉強するなら海外に行った方がいいと」。そんな時にラグビーどころのカンタベリー州のアカデミー生としてオファーがあり、海を渡ったという。
堀江のモチベーションは高かった。「僕、ニュージーランド代表になろうと思ってニュージーランドに行ったんですよ。日本代表のキャップを持ってなかったので」。壮大な夢を明かすと、MCの「おぎやはぎ」は「おお!」と声をそろえた。
本来ならアカデミーから代表入りの流れもあったが、突然ライバルが現れたという。「わけわからんやつが入ってきて、最終的に落とされるんですよ」。そのうち、アカデミーの契約も終了し、失意の帰国をしたという。
小木博明が気になったのは、当時の経済事情だった。「そこってお給料出るんですか?」と聞かれた堀江は、「給料は出てました」と答えた。しかし、それでは足りず、アルバイトも経験。「高校の寮の用務員のおじさんみたいなことをしました。バイトしましたね。寮のビーズクッションの中身を替えたり、寮の外の塀のこけをずっと取ったり」と、地味な作業で食いつないでいたことを振り返っていた。