喜多條さんの遺作となった「獨(ひと)り酒」を昨年発売した石川さゆりは「レコーディングをしていたある日、喜多條さんが突然おっしゃった言葉を思い出します。『吉岡治さんが亡くなる少し前に、僕に言ったのよ。これから先石川さゆりのことよろしくお願いしますねって。だからさゆりさんの歌、一生懸命書くから一緒に頑張りましょうよ』と。あのお言葉を聞いてから喜多條さんとはいろいろなお話をしました。これからも喜多條さんと楽しく歌を作った日を大切に、私もまた歌を届けてまいります」と祭壇に語りかけた。
献杯の音頭をとった五木ひろしは「喜多條さんと初めて仕事をしたのは、私が独立した昭和54年のことでした。新しい歌と出会いたいと思い、作ってもらったのが『蝉時雨』です。その後、『凍て鶴』を紅白で2年連続歌ったことなども思い出します。喜多條さんは74歳で旅立たれました。私と同い年です。喜多條さんたちが作り上げた歌謡曲の歴史をしっかりと受け継ぎながら、私たち歌い手はさらに頑張っていきたいと思います」と想いを語った。
発起人の一人、南こうせつは「喜多條さんと出会ったのは1970年ごろ。文化放送でお会いしました。近くの喫茶店で、僕たちは歌の世界にかかわりながら、いつか青山にでかいビルを建てて、自由なお城を作ろう、という話をしたことをはっきりと覚えています。その後にできたのが『マキシーのために』です」と出会いを振り返ると、急きょ五木を壇上に呼び、喜多條さんから提供されたかぐや姫の代表曲「神田川」をデュエットした。
喪主を務めた妻の喜多條輝美さんは「わがままで面倒くさい人でしたが、愛情深く楽しい人でもありました。闘病中もたくさんの心に残るエピソードを残してくれました。きっと皆さんの中にもエピソードをお持ちの方がいらっしゃると思います。時々は思い出して、愛のある悪口を言ってあげてください。皆さまが忘れない限り、喜多條は生きている、私はそう信じています」と結んだ。
喜多條さんは1947年10月24日生まれ、大阪府出身。早稲田大学を中退後、文化放送でラジオ番組の構成作家となった。71年、文化放送で知り合った南こうせつ(かぐや姫)に「マキシーのために」を提供し、作詞家デビュー。73年に「神田川」(かぐや姫)が大ヒットした。代表曲はほかに、キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」(73年)、梓みちよ「メランコリー」(76年)、柏原芳恵「ハロー・グッバイ」(81年)など多数。手がけた作品は700曲以上にのぼり、日本作詩家協会会長、JASRAC理事などを務めた。