哲郎さんは1922年生まれで、今年が生誕100年。長男の丹波は「生きていれば100歳なんですね。100歳どころか、1000歳くらいまで生きそうなイメージでした」と、晩年まで元気だった哲郎さんを懐かしんだ。
両親が結婚した時、哲郎さんは俳優ではなく、サラリーマンだった。しかし、丹波によると、哲郎さんは「毎日さぼってばっかりで、家を出なかった」という。ミシンを踏む貞子さんの横で、雑誌を読むのが、哲郎さんの日課だった。
そんなある日、貞子さんが哲郎さんに質問したという。丹波は「母が“このままじゃどうしようもない。本当は何やりたいの?どうしたいの?”。“俳優やりたい”と言い出したんですよ」と、そのやりとりを説明。貞子さんは「やる以上は日本を代表する俳優になりなさい」と、哲郎さんを叱咤激励し続けたという。
丹波はこの日、哲郎さんが売れる前に作ったタキシード姿で出演した。ジャケットの裏には名前が刺しゅうされていたが、その文字は「丹波」ではなく「丹羽」。名前を間違えられたが、あえて直すことはなかったという。「普通だと直すじゃないですか?分割で買ってお金がない時だから。なのに母は“これはこれでいい。売れてない時の思い出だ”と。“それをバネにして頑張りなさい”と、おやじのしりを叩いてたんです」と明かした。
世間が哲郎さんに抱くイメージは、「大胆な人」。だが丹波は、普段の哲郎さんはその真逆だったという。丹波によると、孫にイチゴを食べさせる際は「ヘタじゃないんですね。“うぶ毛みたいなのを取れ”と。“あれがのどに良くない”って」と言うほど。本名の「正三郎」からとって、身内でのあだ名は「肝っ玉正ちゃん」だったという。
丹波は「皆さんが想像している丹波哲郎の大胆さは、あれは母です。母の方が大胆です、すべてが。父は母を演じてたんです。それくらい母は大胆な人でした」と、意外な事実を明かしていた。