〝哲学芸人〟が語る「セクシー田中さん」 市民社会の「欲望の体系」「活動」からの人間性とは

〝哲学芸人〟が語る「セクシー田中さん」 市民社会の「欲望の体系」「活動」からの人間性とは

都内で開かれた読書会で「セクシー田中さん」を取り上げたマザー・テラサワ

(よろず~ニュース)

 日本テレビ系のドラマ「セクシー田中さん」の原作者で、漫画家の芦原妃名子さんが今年1月29日に50歳の若さで急逝した。放送した日本テレビ、連載していた「姉系プチコミック」を発行する小学館が、ともに徹底した調査を行うと発表している。

 一方で、さまざまな批判、提言が飛び交う中、作品自体の論評は決して多くはない。そんな中、ナチズムを起点に全体主義などの政治哲学で実績を残したハンナ・アーレントに傾倒し、早大大学院の政治学研究科修士課程に進んだが挫折して、〝哲学芸人〟へと転じたマザー・テラサワ(41)が先日、自身が主宰する読書会で「セクシー田中さん」を題材に選んだ。

 読書会は2014年から月1、2回のペースで継続。ニーチェ、バタイユ、サルトル、ソクラテスら哲学者、思想家の名著に加え、近年は「鬼滅の刄」「一発屋芸人列伝」などサブカル系の題材が並ぶ。今回の読書会に向けて、原作の漫画単行本、掲載誌の単行本未収録話を読み込み、テレビドラマ全10話を鑑賞。芸人としての自身の経験を踏まえ、テラサワは持論を展開した。

 芦原さんは原作に忠実であることをドラマ化の条件としていたが、大幅に〝改編〟が施された脚本の修正に苦慮し、ドラマの9、10話は自らが脚本を担当。放送終了後に脚本家が状況説明と心境をSNSに投稿した後、芦原さんはその真相を明かすような形で、自身がドラマの脚本を担当するいきさつ、その出来栄えへの謙虚な自己評価、周囲や読者への感謝などを、自身のブログ、SNSで明かしていた。その後、その反響の大きさへの戸惑いを記した後、非常に残念な結果へと進んだ。

 テラサワは「まずテレビ局にとって、他の会社は小学館であろうと〝出入り業者〟に過ぎません」と切り出し、自身がテレビ番組のネタ見せに参加した際の出来事を述懐。22年2月に日本テレビ系「有吉の壁」に出演した際は、デカルトをモチーフとしたネタを披露して局地的な衝撃を与えたように、哲学的なネタが特徴だが、ネタ見せでは多くの場合「ネタに対して『難しい』と言われ、すいませんでしたと…。当たり前のことを言われるだけでしたね」と言及。ネタ見せに呼ばれる前から分かりきった芸風を、ダメ出しされた経験を明かした。

 かつての人気番組「エンタの神様」では、局側によるネタの修正、キャラ設定の指示が知られていることを挙げ、「芸人が納得しているなら仕方ないが、『セクシー田中さん』は違うわけですから」と話題を元に戻した。「ドラマを見て思ったのは、漫画にとても忠実で、非常に面白かったということです」。8話からドラマ版のオリジナル要素が増え、9、10話は芦原さんの脚本となる。「ところが9、10話は8話まで見られたカメラワークなどの演出が急に少なくなり、特に10話は畳みかけるような展開が増えました。芦原先生が説明していた脚本だけでなく、演出も含めて編集自体が切羽詰まった、余裕のなさを感じました」と指摘した。

 芦原さんが生前にブログに記した「一見奇抜なタイトルのふざけたラブコメ漫画に見えますが…。自己肯定感の低さ故生きづらさを抱える人達に、優しく強く寄り添える作品にしたい」の言葉通り、「セクシー田中さん」の作中には価値観の多様化に伴う生きづらさが描かれている。アラフォーの独身女性でベリーダンスに情熱を注ぐ田中京子(演・木南晴夏)を主人公に、さまざまな生きづらさを抱えるキャラクターが登場し、恋愛を軸にユーモアとシリアスさが巧みに織り交ぜられていく。

【次ページ】近代以降の自由恋愛と恋愛至上

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 愛され系もそんな自身を不本意に思う23歳の派遣OL・倉橋朱里(演・生見愛瑠)、堅物で古臭い価値観を持ち女性への偏見を持つ銀行員・笙野浩介(演・毎熊克哉=ドラマでは商社マン)、笙野の友人で広告代理店に勤務し女子力が高い〝チャラリーマン〟小西一紀(演・前田公輝=ドラマでは笙野の同僚)、田中さんが憧れるペルシャ料理店「Sabalan」のマスター・三好圭人(演・安田顕)らが物語を彩る。

 テラサワは近代以降に自由恋愛が尊重されるようになった変遷を説明した上で、登場人物の価値観の相違はフランスの社会学者ブルデューが提唱した文化資本(金銭・財産以外の学歴や文化的素養、育成環境といった個人的資産)を想起させつつも、年収、年齢や職業等が重視される現代の厳しい恋愛市場が描かれているという所感を述べた。そして「小西ですらチャラチャラした行為には、自分がチャラチャラした人間だ、というレーダー的発想が働いている」と言及。アメリカの社会心理学者リースマンが唱えた、大衆社会では「大衆が支持する価値観」に従う事が絶対的規範となる心理的性向「レーダー型人間」を挙げ、この点が生きづらさの一因であるとの指摘を行った。

 テラサワは「人と人のつながりがあるようで、実はない社会。全てが商品のやりとりで成り立っている社会を近代はつくりました。結婚、恋愛ですら、人間を『商品』として見ることが先行し、相手、自分にも同じ目線、商品としての優劣でしか、人間をはかることができない」と論じた。

 そして、作中に頻出する「居場所」という言葉がカギになるとし、その場所であるベリーダンスを披露するペルシャ料理店「Sabalan」に注目。「飲食店なのでもちろん市場経済の一部ではあるけれど、人と人が思想をむき出しにできる場所。田中さんに影響されて倉橋が生き方を変えたり、田中さんに憧れて笙野が三好からダブラッカを教わったり。人と人が相互に関わって何か新しいことを始めることを、自分が研究していたアーレントは『活動』という言い方をしていました」と述べ、「ヘーゲルは近代の市民社会を『欲望の体系』と言っていました。経済的な結びつきだけでは、欲望を満たすためだけに駆動していく社会になってしまうから、この社会はろくでもない、と。アーレントもその考え方を踏襲していて、欲望を優先させるからこそ、それに適しない、価値がないと判断されたことは排除される。同一的、絶対的な価値観に合わさない、逸脱した人間は後ろ指を指される、と述べました」と続けた。

 このように語ったテラサワは、作品に戻り「田中さんも職場では恋愛市場の売れ残りのように見られているが、ベリーダンスを通して、田中さんを見る目も変化していく。僕は、経済的な変数のようなものに捉えられない中で、どうやって人間性を築けるか、を問う作品なのかなと思いました」と総括した。

 だからこそ、作者の悲劇的な最期を「人間性を築ける場所を大事だと訴える人が、ゴリゴリの経済システムの中にいた矛盾。経済的な実績を残して、ドラマ化されるような作品を描くことで、自分の考えを発信できる立場になっても、企業社会の中で自分の尊厳が無視されるような状況が起こったことがショックでしたね。どうすればいいんだろうか」と、やり切れなさを口にした。日本テレビ、小学館の調査に対しては「個人的に気になるのは、最初の脚本と、その決定プロセスを知りたいですね」と語っていた。

(よろず〜ニュース・山本 鋼平)

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