「中国の寒村」生まれのポケGO開発者、日本では当然すぎた「特権」に気づく

 ゲームアプリ「ポケモンGO」と「ピクミンブルーム」の開発責任者を務めた野村達雄さん(36)は、9歳のときに家族で中国から東京に移住した。日本語が一つもわからず、英語も苦手だった少年が、東京工業大の大学院を経て、米Googleで働くまでになった道のりとは――。(読売中高生新聞)

目次

パソコンを買うために新聞配達

 野村さんの祖母・志津さん(1973年に死去)は第2次世界大戦後、中国東北部(旧満州)に残らざるをえなかった「中国残留婦人」だった。

 野村さんは、1995年に家族そろって東京都練馬区に移住した直後から中学時代にかけ、ゲームで友だちを増やし、学びも得た。やがてゲームの裏ワザを研究するうち、「ゲームの中身はパソコンで作っている」と知り、関心の比重は次第にそちらへ移っていった。小5で長野市に引っ越した後、野村さんは中学生になり、パソコンを買うために新聞配達に励んだ。

最初に買ったパソコンは10万円

 「毎朝5時から自転車に乗り、毎日80〜130軒を回りました。土曜、連休、元旦はチラシが多くて特に大変だし、冬は雪や道路の凍結で盛大に転ぶこともありました。今の僕にそんな根性ないです(笑)。

 毎月2万〜3万円の給料をもらうと即ゲームを買っていましたが、パソコンが欲しくなって貯金を始め、10万円の格安パソコンを買いました。父に代わってインターネットの契約も済ませ、知識を深めていきました。

 新聞配達は中3の2学期まで。その後もファストフード店、宅配ピザ店、豆腐工場、家庭教師など、大学2年までいろんなアルバイトをしました」

パソコンを「自作」30台近く組み立てた

 愛機を手に入れると、参考書を読んでプログラミングを覚え、テレビゲームを改造してみたり、携帯電話アプリの開発に挑んだり。さらには将棋の藤井聡太竜王(19)(王位、叡王、王将、棋聖)と同じように……。

 「パソコンを自作するようになりました。同じスペック(性能)なら、お店で買うより3割くらい安くなります。

 すると、『材料費だけで作ってくれる高校生がいる』と長野県内の中国人コミュニティーで口コミで知られるようになり、中学・高校を通じて全部で30台近く組み立てました」

 そんな「パソコン博士」が迎えた大学受験。本格的にコンピューターのことを学べる進学先を探し、前期日程の横浜国立大学は不合格だったが、後期で信州大学工学部の情報工学科に合格し、進学した。

大学の授業で「天狗」に、バイトで荒稼ぎ

 「実は、大学1年でコンピューターサイエンス(計算機科学)の講義を受けたとき、失望しました。中高生時代に独学で習得した話がほとんどだったからです。

 僕は少し“天狗”になり、大学の外でのアルバイトに拍車がかかりました。家電量販店の修理や販売の派遣社員として、時給1200円。月に15万〜20万円を稼ぎました。

 でも『簡単』に感じたのは、1年目の一般教養的な講義だったからでした。2年になり、工学部の専門教育が始まると、自分は全然わかっていなかった……と思い知りました。まさしく『学べば学ぶほど、自分がどれだけ無知か思い知らされる』という日々で、もっともっと知りたいと思うようになりました」

専門講義で目覚め、すべての時間を勉強に

 ここで、野村さんは決断を下した。アルバイトをすべて辞め、必要なお金は奨学金を借りることにした。

 「2年からの専門講義が面白くて、いつからか、アルバイトの休み時間も教科書を読み込んでいました。『バイトの時間も勉強に充てたいな……』という思いが募り、やがて当たり前のことに気づきました。自分が年を取ったら、『20歳の1時間』は1200円では絶対に買い戻せない、と。

 もちろん、生活のためにバイトが必要なときもあるでしょう。でも、僕の大学1年の過ごし方は本当にもったいなかったと、いまでも思っています。熱中できるものにこそ、時間を使うべきでした」

高校の英語の試験は17点

 気になるのは、言葉のことだ。アメリカのGoogle本社で働いたこともある野村さんだが、高3最後の定期テストの英語は、なんと17点だったという(100点満点で)。その前に、小3で中国から来日した当初、日本語に困らなかったのか。

 「日本語は、初めは不安でしたが、3か月で日常会話をほぼ理解し、半年で日本の子と同じように話せていました。友だちとの会話で吸収できましたし、中国語を話せる日本語の先生が小学校に来てくれましたから。

 他にも中国残留日本人3世の子が数人いて、その年頃の子ども特有の能力なのか、みんな僕と同様でした。ただ、両親はずっと苦労し、役所の手続きには僕らきょうだいが“通訳”しに行きました」

 英語はどうだろう。野村さんは高3で17点だったのに、信州大学に現役合格し、4年次でTOEIC800点を超え、東京工業大の大学院を出た頃には970点前後に達したのだった。

英語学習法は映画を繰り返し

 「中高生時代、本当に英語が苦手で悲惨な点も取りました。大学選びの条件は、コンピューターサイエンスを学べて入試科目に英語がないこと。センター試験(現・大学入学共通テスト)の外国語は中国語を選び、ほぼ満点です(笑)。

 英語学習の方法論はさまざまですが、僕の経験を振り返ると、『いかに英語を使う環境に身を置けるか』が一番大事でした。大学では、まったく話せないうちから、留学生や外国出身の先生に話しかけました。

 コンピューター関連の文献は英語で書かれたものが多く、それを読みこなすためにも『英語をちゃんと使えるように』という熱意に支えられていました。

 大学院のときにやったのは、一度普通に見た映画を音声・字幕とも英語にして、わからない単語が出るたび一時停止してメモし、また進む。同じ映画でセリフを覚えるほど繰り返しました。

 シドニー・シェルダンらの小説も読みました。こちらは知らない単語をなるべく飛ばし、ストーリーを推測するよう心がけました」

現在は建築デザインを学ぶ学生

 そして今、野村さんは京都芸術大の学生として建築デザインを学んでいる。ポケモンGO、ピクミンブルームの次は、もしかして、家の設計?

 「いえいえ(笑)。コロナ禍の影響で在宅勤務が続き、住環境や家屋に思いをはせることが増えました。そのうち、『本格的に学んでみたいな』と。昨年4月、3年次に編入しました。

 通信教育でリポート作成などの課題に追われてますが、たとえば建築史を少し学んだだけで、立ち並ぶ建物への着眼点が増え、街の“解像度”が上がったように感じられるのが本当に面白いです。

 このように、現代の日本では、多くの人は学ぶ気があればいつでも学べます。挑戦の機会にも恵まれた人が大半です。日本では当然すぎて、気づきにくいことかもしれません。でも、時代と国が少し違えば、決してそうはいきません。

 せっかくの環境にいる人は、中国の寒村に生まれた僕なのであえてこう表現しますが、持てる『特権』を最大限に生かしてはいかがでしょうか」(聞き手・森田啓文)

【プロフィル】

のむら・たつお=ゲームディレクター。1986年4月16日生まれ、中国・黒竜江省出身。長野県長野吉田高、信州大工学部を卒業後、東京工業大大学院修了。米Googleなどを経て、Niantic Tokyo Studio代表。大学4年の時に日本国籍に帰化し、中国名の石磊(シーレイ)から、正式に野村達雄を本名とした。

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この記事を書いた人

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