江戸時代後期の嘉永年間(1848〜54年)、現在の熊本市で発生した水害の模様を、熊本藩の村役人が記録した文書群が確認された。「三十七年ぶりの大水」「増水五尺(約1・5メートル)」といった記述から、村役人たちが過去の水害を教訓として語り継ぎ、発生直後から密接に情報を交換していたことがわかる。(白石知子)
文書群は白川、緑川沿いの村々の庄屋を統括する
才蔵は白川沿いの本庄村に役所を構えていた。嘉永7年(1854年)6月23日に、別の惣庄屋が才蔵に宛てた書状は、白川の西を流れる坪井川と井芹川が氾濫し、「三十七年ぶりの大水と思われる」「
熊本藩では文化13年(1816年)の6月と8月、堤防2750か所が壊れ死者計23人を出す水害が発生しており、この水害が語り伝えられていたことがわかる。
この書状では、城下町南西にある高麗門の堀で、「増水の様子を見に来た者たち」のうち1人が溺死したとも報告している。
緑川に近い平野村の庄屋が嘉永5年7月12日付で、才蔵に宛てた
今村准教授は、いずれの水害も熊本藩の記録には残っていないことから結果的には深刻な被害はなかったとみる。「大雨が降るたびに村役人同士で細かく情報をやり取りするシステムができていた。情報共有や地域の自治の大切さを、現代に生きる私たちも学ぶことができる」と話している。