セウォル号沈没事故から10年 真相に迫る

2014年4月16日、乗客・乗員476人を乗せたセウォル号が沈没。304人もの尊い命が奪われ、うち250人は高校生。この事故はずさんな運行管理によるものだった。

韓国の海難事故史上最悪と言われる沈没事故について、被害者や被害者家族への取材、裁判資料、韓国メディアの報道等をもとに再現ドラマで紹介した。

4月15日、仁川港は海上の濃い霧に覆われていた。この日のセウォル号の船長は、休暇中の船長に変わって、69歳の1年契約の船長だった。その男性はセウォル号に乗船したことはあまりなかった。

セウォル号に乗船していた、修学旅行に行く高校生たちの行き先は済州島。午後6時30分に仁川港を出航し、14時間後の翌日午前9時に済州島に到着の予定だった。安山市にあるタヌォン高校の2年生325人・教師14人が、セウォル号で済州島へ向かう。その中にいたエジンさんという生徒の両親は娘のためにと必死に働き、エジンさんを送り出していた。

セウォル号を運航するチョンヘジン海運の社長は、利益追求に厳しいオーナーの意向に反することは出来なかった。オーナーは日頃から社長に売上についてプレッシャーをかけていた。

他の船は、出航をとりやめていたが、セウォル号は、まだ天候が回復していないが貨物や車両の積み込みを始めていたことがわかる。最終的に決定するのは船の責任者である船長だが、この時点で出航の最終決定はしなかった。午後6時半の出発の予定だったが、午後11時の天候で判断するという。
それを聞いた教員は「さすがに深夜まで生徒を待たすことは…旅行の延期も検討させていただこうかと思っておりまして」と従業員に告げる。それを聞いた社長は出航を決めた。そして、乗客を船に乗せ始めた。そして午後9時には出航が決まり、従業員たちは急ピッチで準備を行った。

セウォル号の客室は3階から5階。修学旅行の高校生たちの部屋は4階にあり、エジンさんたちの部屋は後部にある大部屋だった。

13時間以上の長旅では船長、1等、2等、3等航海士が交代で操舵室の指揮をとることになっていた。午後9時、霧に包まれた悪天候の中、セウォル号は乗客・乗員476人を乗せて港を出た。

日付が変わった深夜2時前から船は積荷が動いたためか、やや傾いたまま走行していた。しかし、大丈夫だろうと船長は休憩に入った。

濃い霧の中出航したセウォル号だったが、夜が明けるとその霧も消えつつあった。

翌朝午前8時、セウォル号は済州島まであと3時間ほどのメンゴル水道に差し掛かった。ここは潮の流れが早い世界的危険海域。小さな島が多く狭いため、船舶の運行にとっては難所なため慎重な舵取りが要求された。

その時に指揮をとっていたのは1番経験の少ない3等航海士だった。定時に出航していればベテランの航海士が指揮をとるはずだったが、船長は元々のシフトで動かしていた。そのため、午前8時の担当だった3等航海士が指揮をとることになってしまったのだ。船長が横についてフォローするのが当たり前だが、船長は部屋で過ごしていたという。

この頃から生徒たちは船の揺れを感じ出す。そして3等航海士が慌てて右に切るよう指示した瞬間、船は左に大きく傾き転覆。

機関長は船長の指示を仰ぐが、船長は「船が傾かないように、乗客には動かないでその場で待ってるように館内放送して」と指示。船長は動かないようにと指示を出してしまった。これが被害を拡大させてしまう。

その場で待機する乗客たち。最初は救命胴衣の着用の指示もなかった。冷静さを完全に失った乗組員たち、救助の連絡を最初にしたのも学校の生徒だった。

生徒からの連絡は学校にも届き、学校は「救急の連絡をした方がいいかもしれませんね」と判断。この時、生徒からもらった電話で「生徒は全員無事」と伝えたが、このことが後に大きな誤解を招く。

エジンさんは父へと電話をかけた。父は「指示に従って、慌てなくていいから、ちゃんと指示に従って」と伝えたという。

中には、動画の撮影を始める生徒もいた。人は不安や恐怖心から逃れるため、今、自分たちの目の前で起きていることは大したことではないとして平静を保とうとする「正常性バイアス」という心理が働くことがある。正常性バイアスが作動して、災害時に危険だと認識するのが遅れ逃げ遅れる人も少なくない。

だが、時間とともに事態を正確に認識せざるをえない状況になっていく。事態を冷静に判断する生徒も現れた。ある男子生徒は傾いた船内で部屋にある救命胴衣を取り出して配った。一方、乗客の安全を守らなければならない乗組員たちは管制センターから脱出の判断を迫られていたが判断ができないでいた。

転覆してから約30分後に、セウォル号の転覆が世間に報じられた。政府管轄の危機管理センターはメディアの速報を見てセウォル号の事故を知る。
そして当時のパク・クネ大統領に状況を報告するため資料を作った。

セウォル号が転覆してから46分。海洋警察の警備艇が到着。
娘のエジンさんから連絡を受けた父はテレビで転覆する船の映像を目撃する。そして娘に電話をかけ、「逃げろ!すぐに高いところに!」と伝えた。エジンさんがいた部屋は、後方の左側の大部屋ですでに窓のところまで海面がきていた。

高校生の両親たちは学校へと集まっていた。中継の映像を見ながら時間とともに船体が沈んでいくが中にいる乗客を助けている様子はなかった。多くの高校生がいるのは救助隊がいるすぐ近くのドアだが、救助隊がドアを開けることはしなかった。

海洋警察が「セウォル号に何人乗っているか?どこに乗っているか?教えてください」と運航会社に聞くも、どの部屋に乗客が何人いるかなど詳細を把握していなく、現場の救助隊に船内の乗客の情報を正確に伝えることができなかった。

そのころ、国家安全保障室長は大統領側からのリターンが来ないので秘書官に確認すると資料は大統領に渡っていないと知る。そして事故から1時間以上たってようやく事故のことが伝わった。
ようやく大統領の最初の指示が出る。事故発生から約1時間半のことだった。

この事故はいったいなぜ起きたのか?それは人命よりも、利益を追求した企業の考えによるものだった。出港前、運航会社は常識ではあり得ないことをいくつもしていた。出航時間が早まったため急ぐあまり安全のチェックなどは二の次。貨物や車の固定もいい加減だったと言われており、さらに濃霧のため他社の船が欠航したこともありこの日の荷物はいつもの3倍近くもあった。

出港前、政府管轄の検査機関の安全管理チェックを受けなければならないが。積荷のチェック方法は船の沈み具合で確認する。船の規定の線が海面より沈んでいれば過積載となるが、その沈みをごまかすためバラスト水を放出することを指示していた。バラスト水とは、船を安定させるためにおもりとして船内に取り入れる海水のこと。このバラスト水によって傾いても元に戻る復元力が働くのだが、会社からの指示はそのバラスト水を放出して荷物をたくさん積んでくれというものだった。船の安全、乗客の安全の総指揮は船長、全て船長の最終決定となるが、代理でやってきた船長は会社の指示に従ってしまった。

貨物や積荷の固定もいい加減かつバラスト水を減らした状態で走行したセウォル号。船は傾きやすい状態で積荷が徐々に左へとずれていったと思われる。そして、潮の流れの早い難所に突入し、左に大きく傾いたのを戻そうとしたのか右に舵を取った途端、ギリギリで保っていたバランスが崩れ転覆した。

転覆してから1時間。セウォル号の4階まで海水が来ていた。携帯電話を持ち込めない職場にいたエジンさんの母は午前10時すぎに事態を知る。迎えにきた夫と共に安山市から転覆した現場近くの島・珍島へ向かった。

エジンさんは、船室が完全に浸水するのも時間の問題と諦めかけた時、友人が手を伸ばしてくれ無事脱出することができた。救助隊は、まず救命いかだを下ろそうとしたが簡単におろせるはずの救命いかだがびくともしなかった。船内に残り仲間のため救命胴衣を配って回った男子生徒は体力を使い果たしていた。彼がいたのは左側の廊下で、外に出るにはほぼ垂直に見える斜面を10m以上登っていかなければならなかった。

その時外にいた乗客のトラック運転手が声をかけてくれ、カーテンをかき集め、1本の長いロープのようにして下ろした。この時男子生徒の周りには20人近くの生徒がいたというが、男子生徒は他の生徒を先に行かせた。
そしてこのトラック運転手により数名の生徒が甲板に脱出できた。が、途中カーテンがほどけ海中に落ちてしまった生徒もいた。運転手の男性はホースを持って再度救出を行った。

男子生徒が「次は誰が行く?」と聞くも、登れないという女子生徒たちに「上に行ったら他の出口探すから」と10m以上の斜面を上り始めた。登り終えたあと彼が登ってきたところは海水でいっぱいになり、同級生たちの姿は見えなかった。そして彼はヘリで救助された。

見えるのは船の舳先だけとなった。セウォル号は一般客、修学旅行関係者を船内に残したまま沈没した。

学校に集まっていた両親たちはメディアの報道を聞く。それは生徒全員救出というもの。しかしこの情報は転覆した直後、電話で事故を伝えた生徒とのやり取りによるもの。このやり取りを報告した学校側の途中経過をメディアがきちんと取材せず報じてしまったのだ。

転覆から6時間経ったころ、エジンさんの両親は被害者家族の待機所に到着した。そこには名簿が張り出されており、エジンさんの名前が死亡の欄にあった。
しかしエジンさんの父に見知らぬ番号から電話がかかってきた。それはエジンさん本人の声だった。娘は生きていたのだ。

事故当日、午後10時の段階で乗客・乗員476人のうち、救助された人は172人。行方不明者は284人、死者4人だった。救助された人は近くの病院で手当てを受けた。病院にも生徒の家族が殺到した。

設置された家族対策本部の体育館には、救助の報告がない大勢の家族たちが泊まり込んだ。進まない救助作業に家族たちの怒りは増していく。

一夜明け、怒りの矛先が見えない家族に衝撃の事実が判明。海洋警察の救助艇が到着してすぐ、乗客に避難指示を出すこともない中、船の中には乗客が取り残されているにも関わらず、ニュース映像には船長が逃げている姿があった。しかも、船長は乗組員であることがバレないよう制服を脱いでいた。他にも機関長、1等、2等航海士らが真っ先に救助されたという。さらに機関長と1等航海士は乗客や仲間でさえ助けることをせず、酒を飲んでいたと判明したのだ。

セウォル号沈没事故が起こった翌日。当時のパク・クネ大統領が事故現場を訪問し、当初、事故現場だけの予定だったが被害者家族の元へと向かった。

そしてセウォル号の運航会社・チョンヘジン海運の不正も暴かれていく。安全基準を無視した増築がされた可能性が浮上したのだ。

検察はチョンヘジン海運を家宅捜索。そして、オーナーの悪行が次々と暴かれていく。利益を優先し出港したことやバラスト水を抜いたことも世間の知るところとなった。

さらに、セウォル号には25人乗りの救命いかだが46隻搭載されていたが正常に作動したのは1隻のみ、増築の際のペンキで張り付いていたり鎖で固定されていた可能性が上がった。しかし、年1回行われるセウォル号の安全検査は何事もなく通ってしまっていた。

また、現場に最初に到着した海洋警察の123艇の隊員は30年に渡る海洋警察生活で沈没する船からの人命救助訓練を行ったことは一度もないとされ、ヘリから救助を行った隊員は「旅客船が沈没中ということしか聞かされていない。船内に数百人いたことは知らなかった」と証言。政府への批判が高まる中、イ・ジュンソク船長と、転覆の際指揮をとっていた3等航海士、舵を切った操舵手の3人を逮捕。さらに数日後には、1等航海士、2等航海士、機関長らを逮捕。遺棄致死と水難救護法違反の疑いで助かった乗組員15人全員が逮捕された。

事故から1週間、乗客・乗員476人のうち救助されたのは変わらず174人。死者128人、行方不明者は174人いた。当時のパク・クネ大統領は公式に謝罪。そして海難事故に国家レベルの災害管理体制と関係機関の任務と役割を規定したマニュアルを作成すると言った。

しかしセウォル号の運航会社の捜査が進むにつれ、被害者家族にとって許せない事実ばかりが明らかになっていく。セウォル号はこれまで241回の航海中139回が過積載だったことが判明。過積載は常習的に行われていて、航海士たちの危機管理意識は低かった。そしてチョンヘジン海運の社長を拘束。疑いの目は安全管理をする政府機関にも向けられる。さらに検査機関に賄賂を渡し、書類を偽造して出航した疑いが出る。ずさんな安全検査だったことも判明し、管轄する海洋警察の幹部たちも拘束された。運航会社と管理組織の癒着疑惑も浮上。検察は、運航会社に事実上の出頭要請を出した。

するとオーナーは姿を消した。その後、遺体で発見される。外傷はなく自殺と思われた。
事故から7ヶ月、2014年11月。行方不明者は9人、その家族の了承を得て海中捜索は打ち切られた。

2015年5月12日、チョンヘジン海運の社長の最終判決は、業務上過失致死で懲役7年と決定。船長ら乗組員の最終判決は救護措置の放棄、乗客らの放置および船からの脱出は殺人行為と同一とみなせると船長の殺人罪は認められる形となり、無期懲役の判決に。乗組員には遺棄致死罪などで1等航海士懲役12年、機関長懲役10年、2等航海士懲役7年、3等航海士懲役5年の判決が下った。

また、現地海洋警察署の署長と救助に向かった警備艇の艦長2人が避難の指示を行ったかのような虚偽の公文書を作成したとして署長は懲役1年6ヶ月、執行猶予3年、艦長には、懲役6ヶ月、執行猶予2年の判決に。

事故からおよそ2年後、遺族たちで劇団「黄色いリボン」が結成された。遺族の女性は「家から出られなくなった家族が本当に多かったんです。でも『被害者らしさ』に閉じ込められて悲しみにくれるよりも、子供たちの分まで前向きに生きた方がいいんじゃないかと思ったんです」と語る。
劇団には、救助されたエジンさんの母も参加。「私が演劇に参加するようになって娘の気持ちも前向きになってくれました」と話し、エジンさんの今を語ってくれた。事故から10年、エジンさんは今、自分は人を助ける立場になろうと消防士として働いているという。

事故から3年経ったのち、セウォル号は引き上げられた。事故調査委員会が結成され事故の原因を調べると、貨物を固定する装置が一部では全くなかったことが判明。
また、搭乗人数や積載量を増加させるための改造の際、経費削減が目的だったのか設計図とは違った材質で作られており、規定よりも50トン以上軽くなっていることも判明している。

そして、事故から10年経った今年4月16日安山市で追悼式典が行われた。

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