■俳優を志したきっかけ「わりと幼少期から…」
モデル・俳優としての活躍に加え、長編映画初監督作品「blank13」(2018年)が上海国際映画祭で最優秀監督賞を受賞するなど、各方面に才能を発揮する斎藤。
林先生から俳優を志したきっかけを問われると「父が映像制作の仕事をしていて、その仕事現場に遊びにいっていたんですね。父が関わった作品のエンドロールに憧れを持っていて、『自分もこのエンドロールのどこでもいいから名前が載る職業につきたい』というのは、わりと幼少期から思っていました」と振り返った。
映画制作を志し専門学校への進学を考えていた学生時代、父親に言われた「お前は机の上(で勉強する)より現場に出ることを優先した方がいい」という言葉が転機になった。「『映像の現場にどうやったらいけるだろうか』と考えて、表(出演者)の世界から門をたたいた」と、高校1年の時にモデル活動を始めた。
■「バックパッカーを兼ねて」世界へ飛び出す
しかし、その活動はかなり型破り。「バックパッカーを兼ねて、世界各地のモデル事務所がある国でエージェンシーを探して。自分の資料を持っていって所属させてもらって、オーディションの情報をもらったり」と、まったくのゼロから自分の力でキャリアをたたき上げていった。
当時について林先生が「危ない目に遭ったりしなかったんですか?」と尋ねると、斎藤は「テレビでは言えないような…拉致されたりとか、“走馬灯”を実際に体験したんですね。アジアでは身ぐるみ全部盗まれてしまって、大使館に行かなきゃっていうことも」と、壮絶な体験もさらりと打ち明けた。
高校3年時には「パリコレクション」のランウエーも歩いた。20歳の時、映画「時の香り〜リメンバー・ミー〜」(2001年)で俳優デビュー。いきなり主演に抜てきされたが、当時の俳優活動は順風満帆というわけではなかった。
斎藤いわく「当時はとにかくオーディションに落ち続けていまして、100本受けて100本落ちるぐらい」という状況。学生時代には自分自身を「無味無臭な味わいのない素材で、味付けをしないとつまらない」と感じていたという。
■「自分のつまらなさを味付けして…」
そこからの一つの転機が、映画「海猿-ウミザル-」(2004年)。水着審査後、「僕はこの(水着姿の)ままでいいでしょうか」と、印象を残すためにあえて水着姿のまま演技審査に挑み、制作陣に強烈なインパクトを与えた。斎藤は当時を「その辺りから、自分のつまらなさをどうにかオーディションの場で味付けして、打率をちょっとずつ上げていった、そのきっかけになりました」と振り返る。
そして40歳の今、「シン・ウルトラマン」でウルトラマンに変身する主人公という新たな役に挑戦している。そんな斎藤には、ウルトラマンとの意外な関わりがあった。
「父が初めて映像業界に入ったのが円谷さん(プロダクション)のアルバイトで、ウルトラマンタロウの爆破担当だったんです。当時は(家に)テレビがなくて、外部との接点は映画とウルトラマンのフィギュアだけで」と、幼少期からウルトラマンがごく身近にあったという。
林先生が「そのウルトラマン(役)ですもんね!」と感嘆の声を上げると、斎藤も「数奇な運命です」と頷いた。
■託児所、移動映画館…行動で示す“映画”への思い
数年前から自身の監督作品や主演作品の現場に“託児所”を設置するよう提案している。「特に女性スタッフの方が結婚・出産を機に現場を離れている、多くの才能を損失しているっていう流れはずっと前から感じていました。託児所が現場に隣接していたり、ロケ先に常備できたら、子育てと現場が共存できるんじゃないか」と、そこに込めた思いを語った斎藤。
2014年からは被災地や映画館がない地域に映画を届ける移動映画館プロジェクトにも取り組み、「(被災地で)どうにか娯楽の出番をお届けできないかと思って始めたんですけど、九州ではお寺を、沖縄ではビーチを野外映画館にさせてもらったり」と、今では被災地以外にもその場は広がっている。
映画を愛し、映画の未来に心を砕く斎藤。「人生に必要な映画って何本かあると思うんですけど、僕はそういう作品に救われてきたと思っていて。どんな映画もスタッフキャストの方が汗水流した結晶であるので、この作品が必要な人に届いたらいいな」と、しみじみ映画への思いを口にした。